狼たちとの約束:ジャック・デリダ『獣と主権者』への応答【後編】

ジャック・デリダの講義録『獣と主権者』。政治的なものをめぐって、デリダが考え、語る教室を多くの動物たちの形象が通り過ぎて行く。そのなかでも特段目立つ動物――〈狼〉。本記事は、デリダが〈狼〉をめぐって繰り広げる政治的なものについての声に対して、遠くからの応答を響かせる。後編。

Written by 黒岩漠

神の系譜

デリダが思考を開始し、またその解体-再構築の作業を差し向ける場所は、ヨーロッパ言語であり、しばしばフランス語である。彼の思考は、ヨーロッパ言語における語源や派生を含む語誌を視野に収めつつも、それに依拠するのではなく、いわばテクストのなかで〈遊ぶ〉ことによって、語られるべき事柄を捜索しているようにも思われる。

しかし、そのような方法は、僕らにとってもすでに馴染みのものとなっているだろうか? そもそも僕らが獲得可能なものなのだろうか? ヨーロッパ言語からいくらか遠くにある僕らの言語においても? 可能であるとすれば、それは彼方とのあいだにいかなる差異を持つのだろうか? パロールとエクリチュールの関係だって、まるで違うと言うのに…?

【ジャック・デリダの肖像。】

たとえば、僕らは「カク」と言う――何かを紙にでも「書く」のか、それとも何も書くことが浮かばず、頭でも「搔く」のか、ついには「あぐらをかく」しかないのかもしれないわけだが、この複数の「カク」が、実はというと親族であり、本来は何かそこに分有された指示対象があったであろうという、そのことを、僕らが思い「描く」ことはどうも難しい。古語学者を案内人に指名して慎重に進むのでもなければ、すぐに理解を「欠く」(しかし、これはきっと親族ではあるまい)ことになる。要するに、いまここでしてみせたように、たんなる冗談になってしまうわけだ。

では、「オオカミ」とは何だろうか? 獣、特に「犬」を描いた「犭」、そして「良」、すなわち「浪」へと通じて波のように群れをなすことを意味するという象形によって構成された「狼」ではなく、その字をあてられた「オオカミ」という語について考えたい。それは、古い語誌のなかでは次のように説明されている(以下、主に菱川晶子『狼の民俗学』東京大学出版会、2018年参照)。

オホハ大也 カミハ神也 コレヲハ山神ト号スル也

『名語記』。

をほかみ。口ひろきものにて 大にかむなり

『和句解』。

ここには興味深い連関が示されている。狼とは大神であり、また大噛みなのだ。古語学者が明らかにするところによれば、「神」という語が、僕らの言語において関わるのは実は「上」ではない。神は上と関係がない。「髪」は「上(の毛)」であるのだから関わるが、「神」はそうではない。「神」が関わるのは、むしろ「噛み・咬み」であり、また「懸かる・係わる」といった語である。

この連関を隠しているのは、現在にいたるまでの発音の変化である。かつての神の発音は、むしろアイヌ語の「カムイ」にこそ残っているだろう。神を「上」の存在として想像してしまう僕らの頭には、語誌の世界はそこら中が罠だらけの森のようなものである(ちなみに「紙」は「神」とも「上」とも別の系譜だという)。慎重に、よく嗅ぎ回りながら、「狼の歩みで」、歩かなければならないというわけだ。

【西洋画家によって描かれたニホンオオカミ。Wikipediaより。】

僕らを囲む言語では、パロールが大陸から招かれたエクリチュールによって分断ないし変形されたことで、語の連なりが攪乱されている。両者はそれぞれ全く異なる出生と経歴を持っており、しかもヨーロッパのそれとは異なるかたちで、奇妙なパロール中心主義が起動している。僕らはたぶん彼らと似ていない。デリダの歩みを、この言語のもとで後追いすることはできない。おまけに、本来必要なはずの独自のエクリチュール論すらもいまだ(再)発明されていないのだ。

彼らと僕らのあいだに距離があること、その豊かな共通点と相違点の諸々については、すぐにそのことを示そうと思う。だが、もうすでに一匹の「オオ-カミ」が僕らの前を通り過ぎていった――まるで獣と主権者(ないし神)が折り重ねられたような〈獣〉、そしてすでにこの列島から喪われてしまった〈獣〉が。彼の者たちの位置は、やはり〈法の外〉なのだろうか? まだ分からない。いまはまた別の狼が通り過ぎていくのを見守ろう。

送り狼

たとえば、こんな説話が残っている。それは、狼と僕らの両義的な付き合いについて証言している。

せの川付近の庄屋が夜遅く帰って来た時に、狼がいでて庄屋の着物のすそをくわえてひっぱるね。気持悪いけど何処へ行くかしらんと思って、ついて行ったわけなんです。

熊野・中辺路の民話。菱川晶子『狼の民俗学』より引用。以下、同様。

いましがた説話のなかから登場した狼は、おそらく送り狼の系譜に名を連ねる。送り狼、山のなかで僕らと関わろうとしてくる狼たちは何をしようと思っているのか、こちらを襲おうとしているのか、何か自分の望みを告げようとしているのか、それとも僕らを助けようとしているのか、分からない。いつも分からないのだ。本性が隠された存在なのである。

そしたら、ほら穴があってそこに連れ込んで行くと、こりゃもうこの世の終りやと覚悟して狼に食われんだと、自分なりに覚悟したらしいんですけど、ほら穴へいでてまもなく、ズシン、ズシンと音がしてきたと。なんだろうと思って覗き込むと、どうやらヒトツダタラが、一本足で歩いて通った足音だった。

【水木しげるの描いた一本ダタラ(ヒトツダタラ)。】

同系統の別の説話では、ヒトツダタラではなく、たとえば多数の渡り狼、すなわち狼の群れであったりする場合もある。そしてヒトツダタラ自体もまた、狼の系譜に属していると見てよい。一つダタラ、一本ダタラとは、知られているように、鍛冶を生業にするもの、山に住み込み、里のものに怖れられ、生業の性質と重労働のなかで片目と片足を失ってしまった山人の化け物、こう言ってよければ、〈人狼〉なのだ。

まぁそれがすんだら狼が着物のすそを引っぱって、表へ連れて行ったと。ああこれは狼が、われが食うんじゃないんや、助けてくれたんじゃと狼にお礼を言うたわけなんですの。

今回の狼は、僕らを助けてくれるような狼であったわけだ。僕らは狼の顔色が分からない。僕らは狼が何を考えているか分からない。少なくともこの説話においては、僕らを食べようと企むのも、その企みから救うのも、ともに狼だった。

「危ない所を助けてくれてどうもありがとう。お前にお礼をしたいんだけど、何とも持ち合わせがないんやから、せめてわしが死んだらわしの体をあげよう。これでまぁ、わしの気持として受けとってくれよ」と、狼に言うたらしいんやけど、狼はもうおらん。

この約束を、決して忘れないようにしよう。〈獣〉とのあいだに結ばれた、この約束を。少なくとも狼の側は忘れないだろう。

まぁ狼というのは言いますわね、萱三本あったら消えてしまうというほどやから。そういうことがあってそれでまぁ、庄屋が亡くなった。すぐに庄屋の墓があばかれて穴があいて、庄屋の体がなくなっておった。その庄屋の子どもも、代々ずっとそれが続いているという話を聞いておるんです。

いくら代を重ねても、この約束を、狼たちは決して忘れなかった。約束、それはここではある種の法になっているのであって、この法は庄屋の子孫たちの死体がことごとく狼たちに捧げられることを定めた法、狼たちに庄屋の家の墓であれば常に暴いてよい権利を認めた法なのだ。同時にそこでは、ほかの狼や人狼は完全に〈法の外〉に、約束など交わせようもない位置に置かれている。

狼たちとの約束? 人間たちに自己の死体を捧げることを義務づけ、狼たちに墓を暴く権利を認める法? 獣や主権者といった形象は、大犯罪人と同じく、〈法の外〉の存在ではなかったのか? デリダが間違っていた、早まってしまったとまだ決めつけるわけにはいかないだろう。確かに西洋においても、そしてしばしば東洋においても、獣が〈法の外〉に置かれてきたことは事実なのだから。だがどうやら、そう言って済ますだけでいいわけではないということを、いま通り過ぎたばかりの狼たちは主張していた。しかし、もうしばらく、多くの獣たちが通り過ぎるのを見守る必要が、どうやら僕らにはあるようだ――。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次
閉じる