『海獣の子供』に巻き込まれるという体験

五十嵐大介による漫画『海獣の子供』、および同名映画化作品が描く「誕生祭」とはなにか? 人間は、そこでいかなる世界を前にするのか? 作者・五十嵐が参考にしたある詩の描く光景も含めて、「誕生祭」のもつ魅力と可能性を徹底考察!

Written by 井沼香保里

ある真夜中の衝撃

2019年6月、五十嵐大介の漫画作品を原作とする映画『海獣の子供』が上映された。

私がこの映画のことを知ったのは、主題歌、米津玄師「海の幽霊」のミュージック・ビデオを通してだった。ある日の真夜中、布団のなかで寝つけずにいたとき何気なく開いたYouTubeのおすすめで出てきたのだ。狭いスマホ画面のなかでとんでもなく美しく壮大な映像が、異次元を感じさせる楽曲とともに次々と展開されていくのを見て、「これはなんだ、何が起きているんだ!」と一人興奮していた。

私は普段あまり映画館に行かないのだが、それから間もなくしてほとんど衝動的に映画館に駆け付けた。そして本編を観終わるころには、私の頭は割れそうなほどガンガンしていた。おそらく、ラスト30分の映像体験が、自分の脳みその処理速度やキャパシティを軽々と超えていたせいだと思う。その後すぐに五十嵐大介の同名原作の単行本(2007年~2012年、全5巻)を入手。それも今ではすっかり愛読書になった。この愛読ぶりは、私にとっては宮崎駿による漫画版『風の谷のナウシカ』(1983年~1995年、全7巻)に匹敵する。

ナウシカと琉花は違う?

確かに『海獣の子供』と『風の谷のナウシカ』は、どこか似ている気がしないでもない。一見すると、どちらも壮大でエコロジカルな視座を提供している点など多くの共通性を有しているように思える。しかし、そうした印象的ないし表面的なレベルだけで両者が似ている、と判断して事足れりとするのはあまりにも勿体ない。両作品が示すものには、大きな違いがあるのだから。

まず、『ナウシカ』に比べて『海獣の子供』が読者や観客に提示しているものはあまり明示的とはいいがたい。ナウシカは生態系の中の人間を強く意識し、種を超えて生き物たちと心を通わせる。そうした彼女の振る舞いに接する周囲の人物たちは、少しずつ彼女に影響を受けながら、彼女が指し示す世界観に向かって自身の心の在り方や行動を変化させていく。

高度経済成長に伴って環境破壊が深刻化し、地球温暖化によって自然災害が世界各地で猛威を振るい、ついには地質時代が人新世に入ったといわれるこの時代にあって、読者/観客のなかにはこうしたナウシカの在り方に憧れ、かくありたいとすら願う人もいるのではないだろうか。原作の連載が1982年に月刊『アニメージュ』で開始されてから40年を経てもなお、この作品が提示している世界観や思想のもつ重要性は増すばかりである。

一方で『海獣の子供』では、ナウシカのようなカリスマ性や求心力、影響力を持つ人物は描かれていない。主人公の位置にあるのは中学生の琉花(るか)だが、彼女はジュゴンに育てられた少年たち海(うみ)と空(そら)と偶然に出会い、そこから「誕生祭」という物語の渦のなかにあくまで「巻き込まれていく」一存在に過ぎない。登場人物たちも、もともと持って生まれた性質や性格、感性が、この誕生祭をめぐって物語が進展するなかで研ぎ澄まされたり強められたりすることはあるにせよ、なにかしらより望ましい在り方へと変更されることはない。彼らの誰かが、あるいは共同して、世界を変えたり救ったりすることはないのだ。

【『海獣の子供』(2019) (Netflix 10:04) 琉花は、神がかった救世主などではなく、あまり人間関係が上手くいっていない平凡な中学生だ。】

巨大な命の渦、誕生祭

むしろ、この物語が読者や観客に与えてくれるものは、救世主のような超越的個人ではなく、やはり「誕生祭」という出来事そのものの表現に大きく関わっているといえる。ここでの「誕生」とは、子宮に精子が入りこみ新たな生命が生じるように、地球に隕石が落ちることで新たな星、銀河、宇宙が誕生することとして描かれている。そしてそれをめぐる「祭り」では、その現場に立ち会うため大移動してきた海の生き物たちがひしめくなかで、海の中に宇宙が広がっていく光景が展開される。

この誕生祭がもつ意味は、この作品を読んだり観たりするなかでそれぞれが解釈すべきことだ。ただ、物語の終盤で誕生祭を経たあとの琉花のある言葉は、これが指し示す当のものをよく表わしているように思われる。それは、彼岸と此岸をつなぐとされる子宮から生まれた妹のへその緒を琉花が切るときに添えられた、「命を絶つ 感触がした」という言葉だ。人間は生まれることで「命」から絶たれてしまうのだという。ここだけ抜き出してしまうと状況と言葉がちぐはぐに思えるが、ここでの「命」が意味するのは個々の「生命」のことではなく、作品の全編を通して描かれてきたこと、すなわち、海の生物や空の星々、地上の人間たちが誕生祭に向けて沸き立ち、その「本番」で入り乱れ、交わり、やがて互いの区別を失うような、〈巨大な命の渦〉とでも呼べるもののことだ。

「誕生祭」の誕生

ところで、原作におけるこの「誕生祭」の描写はどのように生まれたのか? 作者の五十嵐大介自身は、この作品の壮大な物語は連載開始時から想定していたのかという質問に答えるかたちで、「誕生祭」についてこんな思いがけない種明かしをしている。

いや、ストーリーは全然考えていませんでした。何となくジュゴンに育てられた少年と、彼と出逢うことになる少女の話にしよう。でも、物語の最後は海と宇宙とが繋がるようなものにしたいなとは思いました。詩人の草野心平さんが書いた「誕生祭」という詩があるんですが、この詩が僕は大好きなんです。ただ、山の沼で蛙たちが鳴いている様子を言葉で描写したものですが、その詩の世界観を自分なりに漫画として形にできればいいなと。それで、少年と少女が「誕生祭」へ向かっていくという、大まかな流れができたんです

『オトコト』での五十嵐大介インタビュー:https://otocoto.jp/interview/kaijunokodomo/3/

このインタビュー記事を目にしてから、私は初めて草野心平の詩「誕生祭」を読んでみた。そしてこの詩のなかで表現されている情景や世界観は、五十嵐が認めているとおりまさに『海獣の子供』のなかで描かれた誕生祭そのものだという印象を受けた。言葉と音と文字の形や配置によって表現された詩と、絵と言葉によって表現された漫画、あるいはそれを映像化した映画、そして人の声と楽器と機械音が組み合わさった音楽が、ここまで受け手に同じ印象を与えているということ自体が、私にはちょっとした衝撃であった。

沼地のなかの「誕生祭」

では、草野心平の詩に描かれているものを少しだけ見てみよう。詩の冒頭、沼に映りこんだ夕焼雲から、次第に暗くなり始めて辺りを飛び交う蛍のイルミネーションへと描写が続き、一転してさっと暗闇が広がると、蛙たちが「悠々延々たり一万年のはての祝祭」と合唱をはじめる(以下、「誕生祭」入沢康夫編『草野心平詩集』岩波書店、2017年)。

全われわれの誕生の。

全われわれのよろこびの。

今宵は今年のたつたひと宵。

全われわれの胸は音たて。

全われわれの瞳はひかり。

全われわれの未来を祝し。

全われわれは……。

こうして祭りが始まると、泥鰌が光り、無数の蛍たちが舞い飛ぶ。そして、バラバラな調子の蛙の鳴き声がしばらく続いたあと、詩は次の連で結ばれる。

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

ぎゃろわっぎゃろわっぎゃわろろろろりっ

耳をふさいでも聞こえてくるような蛙の大合唱だが、その音を奏でるひらがなの配置も、どこか生命のリズムを象っているようだ。文字の空間が「ぎゃ」で密になったかと思えば、続いて「ろわっ」や「わろろろろりっ」で弛緩するように開かれる。そしてこの凝集と開放の繰り返しが、さらに幾度も繰り返される。地上に煌めく光の描写を背景としながら沼地の蛙の鳴き声をこのように詠んだ詩には、たとえば蛙が卵を産むような個別的な営みとは異なる、より集合的で、時空を超えるほど充溢したヴァイタリティが表現されている。沼地が宇宙に繋がっているのだ。

眼差しによる〈人間〉の休止

これらの誕生祭において、海が、沼地が、宇宙と繋がるとき、あるいは人がその〈巨大な命の渦〉のなかに巻き込まれるとき、人は変化の中心たることも、望ましい方向に向けて自身を変化させることもできなくなる。なぜなら、人が人たりえなくなるからだ。これについては、原作の次のシーンが示唆的である。誕生祭のさなか、海中であるはずの場所に惑星が浮かび太古の生物や怪獣が輝きながら泳ぐ空間において、琉花がそこに漂う無数の目によって〈見られている〉という場面だ。

【五十嵐大介『海獣の子供』第5巻、2019年、小学館pp.176-177】

一般に、主体としての人間たることを担保するのは、わたしたちが意識的にせよ無意識的にせよ外界のあらゆるものを眼差し、認識し、分類することによって、見ているわれわれ主体と見られている客体あるいは客体間の、それぞれの輪郭を再現なく画定していくという作業に基礎づけられているとするならば、琉花がただ眼差すためだけにある目によって、つまり認識すべき対象の輪郭を欠いた当のものによって〈ただ見られている〉という事態は、こうした主体としての人間を生成するプロセスを休止させることになる。

さらに、そこでは眼差しの主体が欠如しているために、眼差される側が客体になり切ることもできない。こうして、琉花はもはや琉花(人)ではなくなり、〈巨大な命の渦〉のなかにただ在るだけのなにかとなる。

観客をも飲み込む渦

映画版の『海獣の子供』は、観客がこうした人間の休止という事態をより直接的に経験できるようなかたちで表現しているように思える。クライマックスの誕生祭のシーンは、真っ暗な宇宙のなかを色鮮やかな閃光が貫き、観る者の自我の輪郭が失われるような幻想的な映像が展開される。すでに映画を観た人々によっても指摘されていることだが、さながらスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)でデヴィッド・ボーマン船長が未知の時空間スター・ゲートを旅しているときのシーンのようだ。

この圧倒するような映像美のなかで、琉花は宇宙になり、彼女の真っ黒なシルエットに鋭い目が現れて画面いっぱいにこちらを見つめる。琉花なのか宇宙なのかすら定かではなくなったものによって、観客はただ見つめられる。

【『海獣の子供』(2019) (Netflix 1:29:24)】

さらに宇宙空間の中心に巨大な受精卵が現れ、細胞分裂を繰り返しながら、その周りを無数の目が飛び交う。『2001年宇宙の旅』では旅の果てに人類を超越したスター・チャイルドが誕生したわけだが、それとは異なり、ここで受精卵によって生まれるのは人間でも人間より進化した存在でもなく、〈無限の宇宙=海=すべての生き物〉である。

これらすべてが混然一体となった映像が壮大な音楽を伴って展開されるなかで、観客はどこまでその主体性を保持し続けることができるだろうか?

『海獣の子供』が読者や観客に与えるものは、したがって、冒頭で触れた『風の谷のナウシカ』とは全く異なる方向にあることは明らかだろう。そこには今の世界を導くような羅針盤も思想も明示的に打ち出されてはいないものの、海や宇宙といった〈命の渦〉に、ほんの束の間でも「巻き込まれてしまう」ような感覚をもたらしてくれる。たとえ私たちが作品を読み/観終わったら、つまり作品の磁場を離れたら、普段の「主体」ひしめく日常世界へ戻らざるを得ないとしても、この誕生祭をめぐる体験は私たちの身体や意識、記憶の奥底に刻まれ続けることだろう。

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